新商品は年間1000種  「ROOTOTE」がトートバッグ一本に絞る理由(日経クロストレンド)

FX常勝トレーダー養成ギブス(石田 直行)の悪評のレビューあり?

FX常勝トレーダー養成ギブスを販売している
石田 直行さん・・・

注目度が高い分、いろいろな噂もあるよね。

出典元:日経クロストレンド

年間約1000種類の新製品を企画・販売し、2000種類以上を常時ラインアップするトートバッグ専門ブランド「ROOTOTE(ルートート)」。トートバッグ市場を開拓した立役者だが、なぜトートバッグの専業メーカーとなったのか。ルートート(東京・渋谷)代表取締役の神谷富士雄氏を、小口氏が直撃した。

【関連画像】トートバッグは、口が広く持ち手が2つあるシンプルなバッグを指すことが多い。様々なサイズ、形、デザインのものがある。写真はルートートのベーシックなトート「トール」の第1号商品

●雑貨からトートバッグ1本にシフト

小口覺(以下、小口) 会社の沿革を教えてください。

神谷富士雄氏(以下、神谷) 親会社のスーパープランニング(浜松市)は1978年、グラフィックデザイン事務所として、静岡県の浜松で創業されました。浜松は物作りの街で、地元の世界的メーカーのポスター製作や広告代理店業務などを担っていました。80年代に入ると、メーカーの販促に使われるノベルティーグッズの製作を行うようになります。やがて自分たちでもオリジナル商品を手掛けたいという思いが強くなり、雑貨の企画・製造・卸を本格的に始めました。84年のことです。

小口 バブル景気前のことですね。

神谷 ファッションをはじめ、ライフスタイルカルチャーの勃興期で、ロフトさんやキデイランドさんなど、渋谷や原宿を中心に雑貨のマーケットが成長していた時代でした。東京から全国にマーケットが広がり、そこに対して商品を作って卸すことを20年近くやっていました。ペンケースなどのステーショナリー、縫製物や陶器など、本当にあまた作っていました。トートバッグもその一つだったんです。

小口 そこからトートバッグに絞ったきっかけは?

神谷 2000年を迎えるころ、本当にこのままこういう事業を続けていいのかという大きな問いが生まれてきました。もともと私の家系は江戸時代から400年近くお酒を造ることをなりわいにしたこともあり、“たくさんの物を作って多くの人に使ってもらう”から、“限られた物を脈々と作り続けながら多くの人に使ってもらう”という考え方に変わりました。当時は経営戦略として「選択と集中」がいわれていて、会社の事業を見直す風潮もありました。

小口 トートバッグを選んだのは売れていたから?

神谷 売り上げが良かったこともありますし、非常に手離れがよく、投資コストが小さくて済むんです。なおかつグラフィックデザインやアート、コラボレーションなど、いろんな要素を掛け合わせて新しい価値を生み出せる可能性を感じたからです。

小口 当時、トートバッグ専門のブランドはあったのでしょうか?

神谷 2000年代初めは、トートバッグがどういうものか知っている一般生活者は少なかったと記憶しています。今でこそ、様々な業種、業態の店舗で取り扱われていますが、当時はまだ“トートバッグ”と表記して販売することすら少なかった。それだけ認知が低かったのです。ですから当時、競合はほぼなかったです。

小口 当時を振り返ると、男性のかばんの選択肢にトートバッグはほぼなかったですね。

神谷 トートバッグは、物を入れて運ぶ道具としてはミニマルです。それをブランドにするには、何かアイデンティティーがなければいけないと考えました。トートバッグの問題の一つに、多くの物を入れると、ごちゃごちゃして出し入れがしにくくなることがある。そこで、外側からアクセスできるポケットを追加しました。これがルートートの特徴になっています。

小口 財布などの出し入れがスムーズになる。

神谷 必要な物をさっと取り出してしまえる。日本人の所作としても、トートバッグが普及するにはそれが必要不可欠に思いました。この機能的な部分と、グラフィックデザインなどの情緒的な部分を(特徴として)作れば、トートバッグをブランド化できるだろうと、01年に「ROOTOTE」をブランドとして立ち上げました(19年にスーパープランニングから分社化)。

あまり良くないレビューや悪評とかって
それが本当かどうか、ちょっとよくわかりません。

出典元:日経クロストレンド

年間約1000種類の新製品を企画・販売し、2000種類以上を常時ラインアップするトートバッグ専門ブランド「ROOTOTE(ルートート)」。トートバッグ市場を開拓した立役者だが、なぜトートバッグの専業メーカーとなったのか。ルートート(東京・渋谷)代表取締役の神谷富士雄氏を、小口氏が直撃した。

【関連画像】トートバッグは、口が広く持ち手が2つあるシンプルなバッグを指すことが多い。様々なサイズ、形、デザインのものがある。写真はルートートのベーシックなトート「トール」の第1号商品

●雑貨からトートバッグ1本にシフト

小口覺(以下、小口) 会社の沿革を教えてください。

神谷富士雄氏(以下、神谷) 親会社のスーパープランニング(浜松市)は1978年、グラフィックデザイン事務所として、静岡県の浜松で創業されました。浜松は物作りの街で、地元の世界的メーカーのポスター製作や広告代理店業務などを担っていました。80年代に入ると、メーカーの販促に使われるノベルティーグッズの製作を行うようになります。やがて自分たちでもオリジナル商品を手掛けたいという思いが強くなり、雑貨の企画・製造・卸を本格的に始めました。84年のことです。

小口 バブル景気前のことですね。

神谷 ファッションをはじめ、ライフスタイルカルチャーの勃興期で、ロフトさんやキデイランドさんなど、渋谷や原宿を中心に雑貨のマーケットが成長していた時代でした。東京から全国にマーケットが広がり、そこに対して商品を作って卸すことを20年近くやっていました。ペンケースなどのステーショナリー、縫製物や陶器など、本当にあまた作っていました。トートバッグもその一つだったんです。

小口 そこからトートバッグに絞ったきっかけは?

神谷 2000年を迎えるころ、本当にこのままこういう事業を続けていいのかという大きな問いが生まれてきました。もともと私の家系は江戸時代から400年近くお酒を造ることをなりわいにしたこともあり、“たくさんの物を作って多くの人に使ってもらう”から、“限られた物を脈々と作り続けながら多くの人に使ってもらう”という考え方に変わりました。当時は経営戦略として「選択と集中」がいわれていて、会社の事業を見直す風潮もありました。

小口 トートバッグを選んだのは売れていたから?

神谷 売り上げが良かったこともありますし、非常に手離れがよく、投資コストが小さくて済むんです。なおかつグラフィックデザインやアート、コラボレーションなど、いろんな要素を掛け合わせて新しい価値を生み出せる可能性を感じたからです。

小口 当時、トートバッグ専門のブランドはあったのでしょうか?

神谷 2000年代初めは、トートバッグがどういうものか知っている一般生活者は少なかったと記憶しています。今でこそ、様々な業種、業態の店舗で取り扱われていますが、当時はまだ“トートバッグ”と表記して販売することすら少なかった。それだけ認知が低かったのです。ですから当時、競合はほぼなかったです。

小口 当時を振り返ると、男性のかばんの選択肢にトートバッグはほぼなかったですね。

神谷 トートバッグは、物を入れて運ぶ道具としてはミニマルです。それをブランドにするには、何かアイデンティティーがなければいけないと考えました。トートバッグの問題の一つに、多くの物を入れると、ごちゃごちゃして出し入れがしにくくなることがある。そこで、外側からアクセスできるポケットを追加しました。これがルートートの特徴になっています。

小口 財布などの出し入れがスムーズになる。

神谷 必要な物をさっと取り出してしまえる。日本人の所作としても、トートバッグが普及するにはそれが必要不可欠に思いました。この機能的な部分と、グラフィックデザインなどの情緒的な部分を(特徴として)作れば、トートバッグをブランド化できるだろうと、01年に「ROOTOTE」をブランドとして立ち上げました(19年にスーパープランニングから分社化)。

ネットの評判や噂って
実際のところどうなんだろう?

正直、ノウハウに興味あるから気になります。

わたしが気になっているのはコレ・・・

こんなに簡単に効果がでるんなら
すぐにでもやってみたい気がするんですよね。

評判や口コミどおりに効果あるなら
嬉しいけど・・・。

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